
■■■■■■共有地の悲劇■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ Hardin[1968=1993]はLloyd[1833]を引いて共有(牧)地を各自が自分の利益を最大化しようとして使う結果、過度の 放牧が起こり、破滅的な結果が起こるという筋の「共有地の悲劇」を自然環境を巡る問題の所在を言う論として用いた。これ を回避する方法として私有化そして/あるいは規制があり、人口問題の後者の解決策として「出産の自由」の制限が主張され る(批判としてCallahan[1972=1993])。また、人間を自然の支配者とする「フロンティア(カウボーイ)倫理」に環境の 福利のために尽くす「救命ボート倫理」が対置される。豊かな国からの低開発国への援助(猛烈に込んでいる救命ボートから 落ちて泳いできた人の別の豊かな救命ボートへの乗り移りを認めること)が否定される。その理由として「共有知の悲劇」の 論理が用いられる。国境を閉鎖すること(これは国家を単位とした私有化の選択である)によって資源の使用が制限され、人 口増加が抑制されるというのである。(Hardin[1972=1975][1974][1977=1983])紹介と批判としてCallahan [1974]、Schrader-Frechette[1991a=1993][1991b=1993]──後者ではこれに対置されるものとしての「宇宙船倫理」 が検討されている。Hardin[1977=1983]の訳者でもある竹内靖雄[1989]等では肯定的に言及されている。 また、「共有地の悲劇」は社会学等では「社会的ジレンマ」(「囚人のジレンマ」と呼ばれる二人間ゲームの一般化として 定式化される)の一つとして考察の対象になる(長谷川計三[1991a][1991b:30-33]、小林久高[1995:261-271]、「社会 的ジレンマ」について山岸俊男[1990]、海野道郎[1991]等を含む盛山・海野編[1991])。 所有論との関わりでは次のような指摘。「勤労の果実を勤労者に確保する制度の経済的必要性は、やはり認められなければ ならない。そのような制度がまったくない時には、土地の耕作のように長期的な労働などの「投資」の結果はじめてひとつの 財が生み出されるような場合には、個人にとって自分で耕作の労をとるより他人の労働の成果が実る頃にそれを奪うという戦 略の方が合理的になるし、それがわかっているのに耕作する者もいなくなるからである。もちろん皆がこの戦略をとる場合に は、土地は耕作されないから、略奪の対象もなくなるが、だからといって自分だけが耕作することも無意味となるから、囚人 のジレンマが発生する。これを解決するために前もって「各人の」土地を決めておくことで、その土地上での労働の成果の享 受をあらかじめその者に保障することに皆が同意するのだと論じるなら、これは所有権の中に含まれる排他性(およびその系 としての果実取得権)の要素に着目して、それを効率または経済的機能の観点から正当化する議論となる。」(嶋津格 [1992:61-62])。 http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/0e/p-tc.htm |